中日文化研究所(以下、中文研)は、1946年2月に文部省の認可を受けて、社団法人として発足しました。中文研の設立は、第二次世界大戦における日本の敗戦を契機として、中国上海で発想されたものです。当時、上海で残留日本人向けに「改造日報」「改造評論」を発行していた「改造日報館」社内において、「日本と中国の友誼のために互いの文化を尊重する組織を作ろう、中国と日本で一緒に民主化運動を進めよう」という声が挙がり、中文研の構想がスタートしました。その中心的な役割を果たしたのが、陸久之先生(早稲田大学に留学経験を持つ中国国民政府第3方面軍少将参議、改造日報社社長)であり、菊地三郎先生(当時 朝日新聞社中国特派員、後の中文研所長)でありました。構想時における中文研は、本所を上海、支所を東京におくことにしました。今日においても当研究所の名称が「日中文化研究所」ではなく、「中日文化研究所」である所以です。この段階では、中国側のメンバーとして、郭沫若、夏衍、田漢、林漢達、馮雪峰、宦郷、馮乃超、康大川、鄭盛㝢など、日本側のメンバーとしては、島田政雄、鹿地亘夫妻などが予定されていたといいます。
当時の中国は未だ国共合作の時代であり、蒋介石と毛沢東とで、新中国の憲法を作るため、各政権及び愛国人士が政治協商会議の招集を決定しようと合意した時期でありました。米国特使マーシャル、同大使ステュアートは国共の調停にあたりましたが、1946年8月、「国共調停は失敗」との共同声明を発表するに至り、以降は国共内戦の状態となりました。そんな情勢のなか、中国側メンバーは内戦に巻き込まれ、郭沫若先生は香港へと逃れたので、日本へと引き上げてきた菊地先生たち日本側メンバーのみで中文研は東京において設立されることになったのです。1946年5月、銀座教文館に事務所を構えて中文研の活動はスタートしました。事務所を提供したのは筒井重保氏(大同商会社長)でした。この当時、日本における中文研に結集した人々は、菊地三郎、小沢正元、鹿島敏雄、赤津益造、野田健二、筒井重保、島田政雄などの各氏でした。
国共内戦の期間中、香港に亡命した郭沫若先生や陸久之先生から、新聞や雑誌などが東京の中文研へと届けられました。これらを翻訳・解説した記事を中心に、中文研は『中国資料』や『所報』を創刊。加えて中国語の講習会や中国木刻の展示会開催などの文化活動を行いました。
国共内戦が終結し、郭沫若先生は1949年に建国された中華人民共和国の副首相に就任しました。その後、千葉県市川市に在住する郭家一族が順次中国へと引揚げ、最後に引揚げた次男の郭博氏を通じて、郭沫若先生から、先生在日中の研究書など蔵書1300余冊が中文研へと寄贈されたのです。菊地先生はこれを「文庫」とすることをもって日中友好の架け橋とすることを決意し、財界の長老小倉正恒先生と相談し賛同を得て"郭沫若文庫建設運動"を展開しました。この運動は小倉翁をはじめ、村田省三氏、美土路昌一氏らの財界人、学会においては安倍能成、貝塚茂樹、実藤恵秀、そして谷崎潤一郎や川端康成といった文化人に支えられ、1957年の「財団法人アジア文化図書館(現公益財団法人アジア・アフリカ文化財団)」の設立として結実しました。以降、「郭沫若文庫」の管理はアジア・アフリカ文化財団へと引き継がれ現在に至っています。
一方、中文研は2001年2月に定款を改正し、従来からの文化交流・研究に関する活動に加え、中国からの研修生受入れ事業を開始し2013年3月の研修生・技能実習生受入れ事業の終了に至るまでの13年間に計1253名の中国人研修生・技能実習生の受入れを行い、日中間の国際協力に貢献しました。
2008年12月からスタートした新しい公益法人制度に則り、2013年11月に一般社団法人に移行し、現在は、日中に関する学術・文化研究を行う民間研究機関としての活動を継続しています。
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